彼禅宗者、佛法玄底、甚深微妙。本来无一物、本无烦恼。元是菩提。达磨西来、不立文字。直指人心。见性成佛。不同余宗森森万法、相违法义、重重扣论。
天竺二十八祖、以心传心。彼第二十八祖达磨大师、梁世传之汉地、乃至六祖次第相承。然五祖之下、南北二宗始分。六祖南宗之末、渐分五家。道璿律师、承北宗之禅、传之日本、又传教大师、自大唐国、传於此宗、名佛心宗。近来名德、亦自宋朝而传之矣。日本诸处盛以弘传。
第二章 净土宗
又净土宗教、日域广行。 凡此教意、具缚凡夫、欣乐净土、以所修业、往生净土。西方净土、缘深于此土、念佛修行、劣机特为易。生净土後、乃至成佛。
泛而言之、一切诸行、廻向净土、名净土门、修行万行、期於此成、名圣道门。诸教诸宗、皆是圣道、欣求往生、是净土门。源出於起信论、继在龙树论教。天亲菩萨.菩提留支.昙鸾.道绰.善导.怀感等、乃至日域咸作解释、竞而弘通。 日本近代已来、此教特盛。
若加此二宗、即成十宗。然常途所因、其啻八宗而已。
以前所列诸宗次第、非是浅深次第。唯随言列尔。列何可得故、且如上列之耳。
人身圣教难受难值。适得受值。岂得默止乎。仍擧管见、以结来缘。微功不朽、必证菩提矣。
(文永五年戊辰正月二十九日、於豫州圆明寺西谷记之。予一宗教义尚非所轨。余宗教观一无所知。唯擧名目聊述管见。仍错谬极多、正义全阙。诸有识见者质之。)
华严宗沙门凝然(生年廿九)
(讲本)八宗纲要钞(下终)
八宗纲要钞解说
一
凝然は号を示观といつた。仁治元年(一二四〇)三月六日伊豫国(爱媛[县-系])越智郡高桥に生れた。十六才のとき叡山の延历寺で山门不共の菩萨戒を受けたが、十八のとき东大寺の戒坛院で别受戒を受けて円照の弟子となり、二十才のとき通受戒を受けている。师の円照は戒坛院を中兴し、八宗兼学の名匠であつたので、凝然はこの円照について八宗を学んだが、更にまた律を证玄と净因に、天台と密教を圣守に、华严を宗性に受け、のちまた京都へ出て禅に参じ、净土を长西に、真言を真空に听き、八宗はもとより孔老诸子百家の说にも精通した。かくして二十九才のとき『八宗纲要钞』二卷を着し、三十七才のとき东大寺舍那殿で华严を讲じている。三十八才のとき円照没するや、そのあとをついで戒坛院に住し、八宗のうち、特に华严を弘め律の必要を说き、讲経と授戒に遑がなかつた。後宇多天皇は自から南都に幸し、彼について菩萨戒を受けて、国师の号を赐り、後に彼は宫中に召されて『华严五教章』を讲じたといわれる。元亨元年(一三二一)九月五日八十二才で戒坛院に寂し、鹫尾山に葬られた。
凝然は着书极めて多く、华严経探玄记洞幽钞一二〇卷、华严贤圣章六〇卷、五教章通路记五二卷、律宗琼监章六〇卷、梵网戒本疏日珠钞五〇卷、四分戒本疏賛宗记二〇卷、法华経疏慧光记六〇卷、维摩経疏庵罗记四〇卷、胜鬘経疏详玄记一八卷、净土教诲章四〇卷、净土观音记二〇卷等、その数一百六十余部一千余卷と称せられる。现存せるものの大部分には、その奥书に、制作の年时.场所及び动机等が记されてあるので、それらによれば、彼が生国の伊豫以外には余り南都を离れず、ひたすら着述に专念していたことが窥われる。
二
『八宗纲要钞』は、その卷末に
文永五年戊辰正月二十九日、於豫州圆明寺西谷记之。(以下略)
华严宗沙门凝然 生年廿九
と记されているので、鎌仓中期の文永五年(一二六八)凝然が二十九才のときの着作であることは明了である。上下二卷よりなり、鎌仓时代の仏教书にその例の多い问答体の形式で书かれている。まず序论では、初めに仏教の法门は数多いが、[火帚]するところは二藏と三藏を出ない旨を明かにし、次いで三国の仏法流传の历史を略说して、八宗の分派とその弘伝を述べ、日本伝来の宗派が八宗であることを说いている。而して本论においては、俱舍.成[宋-木+(大-一+三)].律.法相.三论.天台.华严.真言の顺序で、八宗の历史と教义の纲要を简洁に记述し、终りに附说として禅と净土との二宗を添えている。よつて、详しくは十宗になるわけであるが、凝然が本书を着したのは、法然が净土宗を开いてより百年に满たず、荣西が入宋[火帚]朝してより七十余年、道元が曹洞宗を开いてより仅か三十余年に过ぎず、禅と净土の二宗は在来の八宗に比べてまだその历史が浅かつたので、附说として简略な记述にとどめ、本论に说く八宗を标题にとつて『八宗纲要钞』と名づけたのである。
从つて凝然の当时において、八宗の纲要を述べることは、仏教の全宗派を概说したことになり、附说ではあるが禅净の二宗も一応加わつているので、尔来、本书は仏教の初学者にとつて必読の书となつたのである。それが如何に広くまた多くの人に読まれたかは、现在残つているおびただしい注疏が如実にそれを物语つている。而も、本书が作られてより七百年後の今日においても、八宗の历史と教义を要领よく缠めた入门书といえば本书を第一に推すべきであろう。凝然自身も卷末の奥书に
予一宗教义尚非所轨。 余宗教观一无所知。 唯擧名目聊述管见。
仍错误极多正义全阙。 诸有识见者质之。
と谦逊して述べているように、仏教研究が长足の进步をとげた今日においては、それぞれの宗学の专门家から见れば、一部に首肯しにくい所说もないではないが、それらは本书の価值を失うほどの瑕瑾ではない。むしろ日本人の书いた平明な汉文を通して、仏教教理のなにものなるかを理解する上に、格好な入门书として推赏するに足るものである。
三
八宗の顺序については、着者が自ら卷末に
以前所列诸宗次第、非是浅深次第。唯随言列尔。列何可得故.且如上列之耳。
と记してはいるが、それは决して无秩序に排列したものではなく、小乘より大乘へ、三乘より一乘へ、显教より密教への次第をとつている点は、弘法大师の十住心判に拠つたものかと考えられる。しかしながら华严宗沙门たる凝然が、华严宗の後に真言宗を配していることは、显密の次第をとれる场合にそれは至极当然のこととはいえ、彼が八宗兼学の学者として各宗を公平に取扱つていることを示すと共に、彼に宗派的偏见が少なかつたことが窥われるのである。
なお、凝然の数ある撰述中、本书と密接な関系をもつものを挙げると『三国仏法伝通缘起』三卷、『内典麈露章』一卷、『律宗纲要』二卷、『净土源流章』一卷等がある。これらは本书に论じ尽せなかつた点を补い、或は一层简略にその要点を缠めた类のものてあるから、并せて参考にせられたい。终りに本书の刊行本并びに注釈书を挙げると次の如きものがある。
八宗纲要 二卷 成 [宋-木+(大-一+三)](元龟 二年刊) 八宗纲要私记附分科 四卷 勤息 义城(明治二二年刊)
八宗纲要 二卷 (承応 二年刊) 释科傍注八宗纲要 二卷 町元 吞空(明治二三年刊)
校订八宗纲要 一卷 円 解(文政一〇年刊) 八宗纲要讲述 三卷 吉谷 觉寿(明治二七年刊)
八宗纲要启蒙录 五卷 楠 潜竜(明治一一年刊) 八宗纲要讲义 一卷 织田 得能(明治三四年刊)
八宗纲要钞讲解 六卷 福田 义导(明治一一年刊) 八宗纲要讲义 一卷 境野 黄洋(明治四二年刊)
八宗纲要考证 二卷 闻 号 述
藤井玄珠补(明治一四年刊)
八宗纲要讲义 一卷 仏教学会 (大正 二年刊)
八宗纲要钞科本 二卷 酒井 最正(明治一五年刊) 八宗纲要讲义 一卷 和田 竜造(大正 五年刊)
冠注八宗纲要 一卷 濑辺 惠灯
杉原 春洞(明治二〇年刊)
八宗纲要讲话 二卷 境野 黄洋(大正 五年刊)
冠导八宗纲要 四卷 杉原 春洞
濑辺 惠灯(明治二一年刊)
八宗纲要问题讲述 一卷 日野 安住(大正 六年刊)
八宗纲要讲义 二卷 柳沢 迎存(明治二一年刊) 八宗纲要讲义 一卷 森 达立(大正一二年刊)
标注八宗纲要 一卷 黑田 真洞(明治二一年刊) 八宗纲要讲义 一卷 富井 隆信(大正一三年刊)
启蒙八宗纲要 二卷 町元 吞空(明治二一年刊) 八宗纲要解说 一卷 柏原 佑义(昭和 二年刊)
冠注八宗纲要 一卷 掘江 庆了(明治二二年刊)